夏山周久というダンサーをご存じでしょうか?
バレエ関係者ならびに関西圏のファンには「何をいまさら!」とお叱りを受けそうですが、昨今の若いバレエ・ファンには少々馴染みが薄い名前になっているかもしれません。
元チャイコフスキー記念東京バレエ団のプリンシパル。その優雅にしてのびやかなダンシングは海外でも「東洋のヌレエフ」と讃えられ、また、ベジャールの名作「THE KABUKI」(1986年初演)では主役由良之介として世界の檜舞台に立ち大絶賛を浴びた、と言えば、ビッグネームのホドをご想像いただけるのではないでしょうか。
退団後はフリーのダンサーとして活躍中。残念ながら、(アクマデモ鈴木の私的な印象ですが)氏の生まれ故郷である関西方面での活動が多いため、T.D.S.で取り上げる機会がなかなかありませんでした。
このコラム『私の尊敬する人そしてライバル』の初回には、迷わず、私自身が敬愛してやまない(変な表現かな)ダンサーとしても一個人としてもお慕いする(ますます変な表現になってきた(^_^;)、夏山周久さんにご登場願いました。
T.D.S.鈴木紳司「東京バレエ団を退団してどれぐらいになりますか?」
Charさん「1989年に退団して.....結婚して11年だから(<男性ダンサーはフツウ隠しますけどね(^_^;) フリー歴13年ぐらいですね」
T.D.S.関西は大阪ご出身ですよね。バレエを始められたのは?」
Charさん「6才の時に高田由紀子バレエ学園でレッスンを始め、中学から法村・友井バレエ学校に通い始めました」
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T.D.S.「先生はどなたですか」
Charさん「当初三宅(セイジ)先生で、高校からは鈴木滝夫先生に教わりました。鈴木先生はとても厳格な方で誰に対しても『ダメダメ』とあの声(<たしかかなりのハスキーボイスでした)で指導していただきました。“背伸びをしないで基本に忠実に踊ること”を教えてくださいましたね」
T.D.S.そのころ法村牧緒(現法村・友井バレエ団団長)さんは?」
Charさん「レニングラードバレエ学校(現ワガノア記念ロシア・バレエ・アカデミー)に留学中でした。バリシニコフと同じクラスだったそうです」
T.D.S.「その後、東京バレエ団に移られるわけですが、きっかけは?」
Charさん「高校生のとき、フェスティバルホール(大阪で一番有名・便利なビッグホール)で『まりも』(1962初演)を観る機会があって、とても衝撃を受けたんです。(テクニック的に)踊れる男性が大勢出演していることも驚きでしたが、それ以上に『こんな世界があるのか!』と信じられなくて.....その足で楽屋を尋ね、佐々木忠次(東京バレエ団代表)さんに入団を直訴しました」
T.D.S.「熱いですね(笑)、高校を中退して?よくご両親が許してくださいましたね」
Charさん「勘当されました」(爆笑)「だから、ちゃんと卒業して上京。それからはバレエ一筋です」
T.D.S.「同期にはどんな方がいらっしゃいますか?」
Charさん「ちょっと上に溝下司朗さん。ほぼ同期に田中洋子・上田忠男(バレエスタジオDUO主宰)藤堂真子・長瀬信夫などがいます」
T.D.S.「錚々たる面々ですね。どなたに教わりましたか?」
Charさん「北原秀晃先生です。18才から教わりましたが(正直な印象として)あの方は尊敬すべき“怪物”です」
T.D.S.「順風満帆.....」
Charさん「とんでもない!あの時代に“つらい・苦しい”とはどういうことか知りましたね。男性はAクラス・Bクラスとあるんですが『早くAクラスに上がりたい』一心で、腰に砂袋をつけてジャンプの稽古をしていました。でもあの頃が一番なつかしい。不思議なものですね.....」
T.D.S.「腰に砂袋.....根性マンガみたいですね。(笑)その甲斐あって、東京バレエ団プリンシバルとしてパリ・オペラ座などの主演なさるわけですが.....東京バレエ団時代はすべてと言って良いほど、世界の一流ダンサーと接する機会にめぐまれましたね。一流はどこが違いますか?」
Charさん「う〜ん...海外から来た一流ダンサーは稽古の時から我々の“針の視線”の中で演技するわけです。こっちは一挙手一投足見逃すものかと(笑)たまに針の視線がうるさくて、稽古は上辺だけなぞって本番だけビシッと決めるというのもいましたよ。でもそれは一流じゃない。一流は針の視線の中でもベストをさらけ出してくれます」
T.D.S.「ベストをさらけ出す....?」
Charさん「真剣そのものなんです。周りを気にするのではなく、あくまで自分、自分に厳しい。その姿勢ですね、学んだのは。ベストをさらけ出しても(他人には)真似できない、到達できない、それが一流です」
T.D.S.「では夏山さんにとってライバルとは?」
Charさん「(ちょっと考え込んで)ライバルというよりも尊敬の対象として篠原聖一くんです」
T.D.S.「えっ!?篠原さんは小林紀子バレエ・シアター(のプリンシパル)ですが同じ舞台で踊られたのですか?」
Charさん「同じ舞台に立ったことはないんじゃないかな。いつだったか虎ノ門ホールで『パ・キータ』を踊るのをみて『やけに巧い(テクニック的に)やつがいる』と意識したのが最初ですね」(笑)
T.D.S.「王子様は2人もいりませんからね(笑)それでいつ頃から親友になったのですか?」
Charさん「(しばらく考えて)覚えてない。(笑)いつの間にか仲良くなった。彼の、自分に妥協しない姿勢に同じ踊り手として教えられることが多いです。
僕の結婚式では長渕剛の『乾杯』(♪かたい絆に想いをよせて 語り尽くせぬ青春の日 ... )を歌ってくれました。それがまた上手いんですよ(爆笑)」
T.D.S.「最後に、これだけはどうしても聞かねばなりません。篠原さんは先日ノーブル・ダンサー役に終止符を打ったようですが、ご自身の問題としてどう思われますか?」
Charさん「彼は自分自身にストイックだから引退出来るのだと思います。でも、(決然と)私はもう少しあがいていたいですね。ぼろぼろになるまで舞台に立っていると思います」
T.D.S.「今日はありがとうございました」
夏山周久さんをもっと知りたい方は↓
ご自身のホームページ【Char's Web Site】http://www07.u-page.so-net.ne.jp/zd5/miharu-n/ でご覧下さい。 なかでも“Ballet写真館”の“パリ・オペラ座でのザ・カブキ出演者大集合”写真は圧巻です。
夏山周久、元東京バレエ団プリンシパル、通称“Char(チャー)”。年上、同輩は親しみを込めて“Char”と呼び、年下の者は敬愛を込めて“Charさん”と呼ぶ。僕が氏に初めて会った頃、Charさんは時すでにバリバリのスターダンサーで、僕は駆け出しのカメラマンだった。後輩ダンサーでもなく、スタッフとしても下っ端にすぎない僕は、“夏山さん”としか呼んだことがない。
Charさんに会ったのは今を遡ること20年も昔、大阪のとあるバレエスタジオの発表会だった。
「ゲストには夏山先生をお招きしていますの」という誇らしげな先生の言葉に、貫禄のある老練なダンサーを想像していたら、現れたのは颯爽とした美青年だった。
当時のCharさんはプリンシパルの傍ら、出身地である大阪でゲスト出演を数多くこなす超売れっ子、20代半ばのダンサー盛りだった。事実、終演後のドン中でのCharさんとのツーショットを楽しみにしている主催者(もちろん女性)の期待を裏切って撮り忘れ、次回からお呼びが掛からなくなったカメラマンの話など、Charさんの人気ぶりを物語るこの手のエピソードは山ほどある。
.....その頃の僕はと言えば、舞台カメラマンを志して3年目、生来の不器用に加え、バレエ門外漢の意識を拭えぬまま、ひたすら先輩に怒鳴られながら現場を往復する毎日だった。
Charさんはすごいダンサーだった。
ジャンプの高さ、遥かな滞空時間、そして気高いまでの美しさ。
駆け出しの僕の眼にも、Charさんのジャンプは美しく静止して見えた。
ジャンプには心底驚いた、が、僕がCharさんを“認識”したのは、そのジャンプにでも類稀な美青年ぶりにでもなかった。
朝一番、顔を合わすと「おはようございます!」と声を掛けてくれるのだ。終了後は「ありがとうございました」と深々とおじきをしてくれるのだ。Charさんが、あのプリンシパルが、下っ端のスタッフの、駆け出しのカメラマンにすぎない22歳の僕に.....!
僕はCharさんに会えるのが楽しみになった。
注意するともなく見ていると、Charさんは誰に対しても分け隔てなく、実に細やかな配慮で接しているのが分かった。
たとえば記念写真のとき、初舞台とおぼしきチビちゃんを膝に抱えては「変なオッチャン!」なんて呼ばれたりしている。なにわ出身のプリンシパルは「そうや、変なオッチャンやで〜」と応酬し、その瞬間、本番前の緊張はほどけ和やかな空気に包まれる。Charさんは舞台の袖で出番を待つ端役の少女たちにも目を配り、声を掛ける。そのまなざしはやわらかく、温かかった。
舞台のCharさんを観るのも楽しみだった。
立っているだけで絵になる、という褒め言葉があるが、Charさんの場合、ただ歩くだけで美しかった。全身から舞台に対する愛情が感じられ、一歩一歩進む度に満ちあふれ、咲きこぼれるようだった。“舞台に対する愛情”、それはこの仕事に関わる者なら程度の差はあれ、誰しもが持っている。(でなければとても続けていけない!)
だがダンサー、スタッフ、普段はぶっきらぼうを決め込む人が多く、それがまた許されるのもこの業界である。懐深く隠し持っている愛情を、出来るなら分かりやすく表現して欲しい、態度に具現して欲しい。我々には毎日でも、子供たちにとってはまさに一期一会の発表会、厳しさも必要だが、ビビルことのないのびやかな雰囲気もまた大事ではないだろうか。
共演者やスタッフに対する細やかな気遣いと舞台に対する真摯な姿勢、謙虚さ。人間Charさんの魅力は尽きることがなかった。それはそのまま、いつまでも見飽きることがないダンサーCharさんの魅力とも重なるものだった。
1990年、僕は10年ぶりに東京に帰ってきた。
東京バレエ団を退団し、フリーになったCharさんは関西に活動の場を移し、僕はCharさんの舞台から次第に遠ざかっていった。カメラマンも10年選手ともなればソコソコに撮れるようにはなったが、ことCharさんに関しては、自分の納得のいくベスト・ショットは1枚もない。これ以上ない被写体を前に、良い写真を撮ろうとするあまり気だけがハヤり、ベスト・チャンスにはほど遠かったのだ。
考えてみたら、僕はプリンシパル時代のCharさんを知らない。伝説になった「THE KABUKI」の由良之助も知らなければ、藤堂真子さんとの名演の数々も知らない。知っているのは、発表会の、きどりのないCharさんだけだ。Charさんのベスト・ショット、僕のカメラマン人生における最大の心残りであり続けるのだろう。
東京に戻って以来Charさんの舞台は殆ど観ていない(撮っていない)。だが、今もCharさんの印象は鮮烈で、色褪せることがない。自信作と呼べるものはなくとも、“永遠のダンスール・ノーブル”Charさんの優雅な姿はこの眼に灼き付いているし、あの笑顔を忘れることはなかった。思えばあの日々、発表会の子供たちがそうであったように、僕も、Charさんの日だまりのようなあの笑顔に見守られ、育てられたのだ。
今回、Charさんこと夏山周久氏に、大胆にもインタビューを申し込んだ僕は、20数年間に渡る出会いの中で初めて面と向き合い、初めて2時間も話し込んだ。僕の肩書きは駆け出しカメラマンからTokyo Dance Square編集人に変わったけれど、目の前にはあの頃と少しも変わらない、いや振付家、プロデューサーとしてますます輝きを増している、Charさんの笑顔があった。
「今度、飲みにいきましょう」別れ際、Charさんが笑顔で言った。
“Charさん”.....少し酔えたなら、今度こそそう呼べるかもしれない。
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