インタビューを終えて どの公演だったのか、終演後に坂本登喜彦さんに「今日はありがとうございました」と声をかけられました。まさか私に声をかけているとは思えず素通りしたのですが、しばらくたってから気づきとても恥ずかしい思いをしました。すれ違いざま、主演ダンサーに「お疲れさま」と声をかけられることはあっても感謝の言葉など想像すらしなかったのです。Dance Squareも私個人もまったく知られていない頃のことです。
The Long Interview
「私の尊敬する人そしてライバル」
第2回〜坂本登喜彦氏
坂本登喜彦というダンサーをご存じでしょうか?
バレエ・ダンス界の大御所諸氏からは「登喜ちゃん」とかわいがられ(?)後輩ダンサーからは「登喜彦さん」と尊敬の念で呼ばれる、日本屈指のバレエダンサーです。
“端正なマスクと舞台への真摯な情熱”は舞台関係者なら誰もが認めるところですが、プロフィールを調べて出演作品のあまりの多さに驚きました。リストからかなり削らざるを得なかったことをお許しください。私が見ていない公演ばかりでどれが代表作品と呼べるのか分からなかったのです。それほどバレエ作家(振付家)がこぞって『使いたい』と思うダンサーなのです。
が、今回はダンサーとしてではなく振付家としてそのアプローチを尋ねてみたいと考えました。というのも2000.12.2 札幌舞踊会のまったく新しい「くるみ割り人形」で振付家:坂本登喜彦さんの発想と才能にぞっこん惚れ込んでいたからです。批評家:うらわまことさんに『音楽、物語はオリジナルに添いながら、その大胆な演出振付は、大きな反響を呼びました。』と、絶賛されるまでもなく「こんな“くるみ”が観たかった」と誰より私自身が強く感じたのです。さあ、今日はどんな話が聞けるのでしょうか。
主な主演作品
1983 望月則彦「蒼いデート」
日本バレエ協会新人賞受賞
1988 工藤大弐「管弦楽組曲第一番」
1989 佐多達枝「脛に傷持つ馬こそ跳ねよ」
1990 千田雅子「ジゼル」
1992 早川惠美子・博子「チェネレントラ」
1993 佐多達枝「父への手紙」
1994 竹内登志子「PRASONAL PEASE」
1996 小川亜矢子「ある結婚の風景」
1996 後藤早知子「ZEAMI」
1997 フレデリック・アシュトン「二羽の鳩」
1999 千田雅子「カルミナ・ブラーナ」
文化庁芸術祭舞踊部門大賞受賞
2000〜 劇団四季「CATS」「アンデルセン」
2002 早川惠美子・博子『名探偵ホームズ登場』
2004 佐多達枝「CARMINA BURANA」
主な振付作品
「Sensltive.....」「Topaz」「Lovers」「Some Emotional Movements」「Oh!birds」「胡桃割り人形」「街角のにぎわい」「ヴェローナの恋人達」「Nine」「Backward」「Pure Winds」「Voice」「ドン・キホーテ」「And You」「コッペリア」「give」「I will be there」「Dash」「Improvement」
創作意欲の源はどこにありますか?
_まず音楽ありきです。偶然の出会いの中から刺激を受けて「この曲を観客の目にどう聴かせるか」と、考えることから始まります。
「Improvement」はモーリス・ラヴェルのピアノ協奏曲ですね。
_この曲によってピアノコンチェルトの重たいイメージが吹き飛びました。かしこまって聞かなかればいけないような思いこみがあったのですが、ラヴェルの“遊び心”に刺激されたのでしょうね。
“振り付け”がどんどん浮かんでくるのでしょうか?
_『(振り付けが完成するまで)早い』とよく言われます。ダンサーが動いてくれなければ変える部分はありますが、今回のメンバーは最強のメンバーですので自在にイメージを膨らませてくれます。
“(ダンサーの)誰でも分かるように簡単にしよう”とか、逆に“分かる人だけ付いてきて”と思うことはありませんか?
_みじんもありません。人に見ていただくからには伝えなければならないメッセージがあります。ラヴェルのピアノコンチェルトを全身で伝えたい、それだけです。
ひょっとすると、振付に入る前に作品が完成しているのでしょうか?
_そうかもしれません.....。私自身がダンサーですので「待たされることの辛さは分かりますし、なによりそのダンサーが乗っている時に何かを伝えたい」と強く思います。
“のっている時”とは?
_(ダンサー・振付家双方の)お互いに気持ちが高揚している瞬間です。そのためにそこまでもっていくのも振付の大事な作業だと考えています。“振りを移す”のではなく“感情を伝える”ためにある時間とも言えます。
(インタビュー当日の)3時間のリハーサルの中でバーレッスン→センターレッスンだけで2時間近く割いていましたがいつも同様ですか?
_そうです。私がダンサーですから“ダンサー個々人の身体が振りを受けたい状態”になるまではリハーサルできません。3時間もらってる中で2時間半をレッスンに使っても構いません。「後の30分でできるだけ進もうよ」が私です。そのダンサーが30分間その振りを動ける状態、物を創れる状態でいることが何より重要です。
(スタジオに入った時に)私が感じたアットホームな暖かさはそこから来るのですね。
_そう言っていただけると嬉しいですネ。このメンバーが大好きですし、彼女たちがいないとこの作品はできません。(女性のみ33人が出演)
「Improvement」のタイトルは?
_若いダンサーのために作った作品「Improvement」は成長という意味ですが、私自身がこの作品で試行錯誤しながら成長しつづけたいと考えています。
登喜彦さんご自身が若いということですね。(爆笑)その原動力は?
_(しばらく考えて)劇団四季の舞台からもらったものかもしれません。
他の出演者がみな「これでもか!」ってぐらい観客を楽しませようとしていることに常に触発されています。
それはプロ根性という言葉に置き換えれるものでしょうか?
_きれいな言葉でひとくくりにされるようなものではなく、役者の原点なんでしょうね。劇場に足を運んでくださる皆さんに“チケット代以上のものをもって帰ってもらいたい”。芸術という言葉に甘えるんじゃなくて“観客がいなければ成立しない”ことを肌で感じているのだと思います。
創作過程で、(観客に)感動してもらうために分かりやすいレベルに落とすことは?
_まったくありえません。どこが誰が基準になってのレベルなのか逆にお聞きしたいほどです。観客一人一人がなんらかに感動しもう一度足を運んでくれなければ芸術じゃないのです。
ダンサーとしての登喜彦さんへの質問です。舞台(上)で一生を終えたいと思いますか?
_死んでもいいと思うぐらい嬉しい瞬間が確かに舞台にはあります。もしかするとそれが一番の幸福かも知れませんね。
もし時間が戻せるならば?
_人生としての長いスタンスで考えた時に戻りたい瞬間はありません。
「あのステップをやり直したい」ということはもちろんありますが、ダンサーとしてや振付家としての失敗は成長するための良い思い出でだったと言えると思います。
その後、取材で何度かお会いするうちに「いつかインタビューしてみたい」と考えるようになりました。それがかなったのは思いのほか早く、1999年札幌舞踊会の東京公演「カルミナ・ブラーナ」(芸術祭大賞受賞)での直前インタビューでした。その際もご自分のことはあまり話したがらず「志村(昌宏)くんが、徳井(美可子)さんが、奥山(健恵)くんが.....」と、他ダンサーにスポットを当てられてちょっと困ったことを覚えています。それほど気配りの人なのです。
そのインタビューを締めくくる言葉がこれでした。
「私は自分のプロフィールに必ず札幌舞踊会所属と記入するのは、そこに精神的なスタンスがあるからです。どんなステージでも札幌舞踊会に所属しているプライドを持って踊ってきたつもりですしこれからもそのつもりです。」
その言葉は、20数年前夢と希望に燃えて夜行列車に飛び乗った私自身の情熱を思い出させました。忘れてはならないその思いを今もかたくなに燃やし続け、バレエ生命をかけて闘いつづけるダンサー登喜彦さん、後輩達はどんなに彼を誇りに思い自らの目標としていることでしょう。精神を伝えることこそ伝統であり命がけのプライドなのです。
1年ほど前に坂本登喜彦さんにインタビューしたものをやっとまとめました。年間出演数が100本を越す(つまり1日に2回出演も多い)日本でもっとも多忙なダンサーに、やっと時間を割いてもらいインタビュー出来たのに、その後何度も会いながら「(掲載が遅くて)スミマセン」と謝ることに自分でも嫌気がさしたほどです。「いえいえ、お忙しいようですね」と逆に励まされて、ますます申し訳ない気持ちになりました。忙しさにかまけていたと言うよりも“これじゃ登喜彦さんの魅力が半分も伝わらない”とテープを聞き直す作業が何度もあったことは事実です。が、それ以上に自分がつけた「私の尊敬する人そしてライバル」にタイトル負けしていました。私が感じている“その人の魅力”を伝えることはなんとも難しいものですね。
The Long Interview
第1回〜夏山周久氏
第3回〜飯島篤氏