日本舞踊の可能性 vol.4
22.11.2&3 浅草公会堂

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Rankoh Hujima


Photographer's Eye

私は日本舞踊は門外漢ですが、「日本舞踊の可能性」のタイトルに背中を押してもらい、自由奔放に解釈し楽しんでみました。

京都右京区の高山寺に伝わる「鳥獣人物戯画」は擬人化された動物を描き「日本最古の漫画」とも言われています。絵巻ですので右から左に巻き取ることで物語が展開します。現代のSNSやHPを縦にスクロールして閲覧するのと似ていますね。

物語は「茶摘み」「川遊び」「弓」「相撲」「印地打ち」が時間と空間を自由に行き来し混在しているようです。
絵巻見物左衛門(藤間蘭黄)が絵巻を夢中になって見ていると大勢の女性が登場し、手振りも鮮やかに茶摘み女達が踊ります。「鳥獣人物戯画」は高山寺に伝わる絵巻ですが、日本最古の茶園(茶の栽培)としても有名なのです。


「鳥獣戯画」

作詞・演出・振付:藤間蘭黄
作曲:杵屋小三郎 
作調:堅田新十郎

谷川で水遊びをする、動物たちを描いています。特徴のある手つきで兎・猿・鹿を判別してご覧ください。

wikiに全巻(第1紙〜第23紙)まで掲載されていますので、絵巻を先にご覧になることをお勧めします。

カエルとウサギの弓矢の場面で蓮の葉の的を照らす狐(火)が登場します。何やらこの狐は別格のようです。
狐:山村 光
「ひが〜し」呼び出しがあり、行司が「ハッケヨイ」
相撲を取る兎と蛙、決まり手は言わずと知れた蛙(かわず)掛けでしょう
猿、兎、蛙の追いかけっこは、「年中行事」の印地打(いんじうち)を描いたのではないかと言われています。
もともと旧暦の正月や端午の節句に行われた子供の遊び行事で、合戦を真似て二手に分かれ石を投げ合います。大人も参加するようになり、死者も出たそうですが、 カエルがひっくり返っているのは殺されているのか、それとも酔っ払っているのか?で意見が分かれます。
「カエルが、ひっくりカエルで、サルは、去る、ということじゃないの?」が一番説得力があるようです。
最後は大田楽の総踊りでで華やかに舞台を閉じるのかと思ったら、吉凶どちらとも知れぬ蛇が登場、それを汐に皆いなくなります。祭りの後の寂しさを漂わせ絵巻見物左衛門が花道を去っていきました。
藤間蘭黄


変身

演出・振付:藤間蘭黄
出演:藤間蘭黄
ピアノ演奏:佐藤卓史

フランツ・カフカ「変身」より
『ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。甲殻のように固い背中を下にして横たわり、普段の大きさに比べると情けないくらいか細い足が自分の目の前にしょんぼりと光っていた』原田義人訳
ナビゲーターの桂吉坊さんが主人公グレゴールの性格を「身体が虫になっているのに仕事に行こうとする真面目人間」と紹介、客席からどこか安心したような笑い声がこぼれます。どうやら日本人が受け入れやすいキャラクターのようです。
藤間蘭黄
一人舞台ですが、登場人物はどんどん入れ替わります。主人公グレゴール、妹・支配人・父親・母親。どうやって区別すればよいのでしょうか。

私は落語の「上下(かみしも)を切る」に慣いました。顔を下手に向ければ“大家さん”などの上位の人、上手へ向ければ”与太郎”など下位の人物を現します。
この舞台では、顔が下手を向けば主人公グレゴール、上手を向けばそれ以外の人物と解釈することにしました。舞台上には一人しかいないのに、上司や家族の行動から内面を想像するしかありません。さあ、忙しいことになってきました。

最も興味があるのは何を食べるかです。妹が運んできたのは『一粒二粒の乾ぶどうとアーモンド、バターをぬったパン、半分腐った古い野菜、食べ残りの骨』などですが、扇子の上に置かれそれを見下ろす視線は、かつての好物をもはや食べたいと思えない悲しみを表現しているのでしょうか。
グレゴールがして欲しいことと、家族の考えがどんどんずれていく様は不幸としか言いようがないのですが、あっという間に演じる人が入れ替わるのを見つめるだけのカメラマンの無力さもかなりのものです。 

ダンスシーンの伝えるチャンスを捉えようとすると、感情の機微を見逃します。りんごを投げつける父親の悲しみと、逃げ惑うグレゴールの戸惑いが交互に出現するのをただ傍観する虚しさもお察し下さい。

不可思議な悲しさが舞台と客席を覆いました。
言葉も通じない、もはや化け物となったグレゴールが死んでホッとしたのは家族だけではなく、不条理な現実社会から逃げられない私たち自身なのかも知れません。

写真・文 鈴木紳司

カーテンコールは天下御免の大撮影会でした。
STAFF
狂言方:竹芝彰三
照明:足立 恒
映像:立石勇人
美術:河内連太