Dramatic Dance Theater 赤い血は命を意味している。人の体に流れるその液体は不足すれば体力を失わせ、成分がバランスを失えば健康をそこなう。だから、吸血鬼という怪物がその血を吸うという行為には死のイメージがつきまとうのかもしれない。 「ドラキュラ」――吸血鬼という素材は多くの表現者を魅了する。多くの翻案作品が存在し、小説、映画、ゲーム、演劇、音楽…と多くの既存作品も存在しているが、今回のダンス・ドラマはまったくのオリジナル作品。いわゆるドラキュラ伯爵が登場するわけではなく、また時代背景も現代の日本。そこでは、精神科の女医が悪夢を分析して薬を処方する現実的世界だ。もっともブラム・ストーカーの同名の小説「ドラキュラ」も実は他の翻案作品や映画のように具体的なドラキュラ伯爵が存在する見せ物的な物語ではない。歴史的な道具だてと、科学がまだまじないとかわならかった時代を使うことであたかもファンタジーのように感じる瞬間もないではないが、当時にしてみればコンテンポラリーであったろう。古い因習のなかで、奔放に振る舞う新しい女性たちの姿を、遠い東の異国から来た得たいの知れない伯爵のしわざであるとして揶揄している一種の風刺と読み取ることもできる。そんな「ドラキュラ」の本質を本作品は再現しているのかもしれない。 ver-gessen, ver-lassen, ver-loren, ver-legen
2005.4.1&&2 東京芸術劇場 中ホール
1of 2
「Dracula」
「いわためぐみのDeus ex Machina…。」
「現代の性を商品化しているような風潮にむけて、その根底にある闇の存在に視線をむけたかった」台本の河内連太の言葉は種明かしのようでもあった。
中村友里子
さて、毎回私ごとで恐縮だが、上田遥作品とのファーストコンタクトは「ダンスにGONEあらためだんす」という競演プログラムでの「巷かくるる八百万の ー狐の巻」だった。TH叢書「ボウルズは忘れるがままにせよ」でその強烈な印象を素直なひとことで表現している。なにより、そのとき一番面白かった。
以来、芝居の外連(ケレン)をダンスで表現する作家として新作を楽しみにするようになった。「原っぱ物語」のような観客の心をくすぐるウィットに溢れた作品でも、根底にはいつも社会を見つめる視線があって「人の心」をじっと見つめている。かと思えば「タンゴ・タンゴ・タンゴ」のように「カッコイイ」を連発したくなるような作品の物語も言葉も排したような構成力なのに、そこには、いわゆる物語はないが人と人がいれば必ず存在するコミュニケーションとしての「ドラマ」がダンスとして存在していてグッときてしまう。
今回はダンス・ドラマ。――ドラマティック・ダンス・シアターと銘打たれた演劇(台詞)と舞踊(肉体)のコラボレーション。
セリフは女優の語るものだけ。他の登場人物はダンスで女優と会話する。またドラキュラ伯爵本人は登場せずに、ドラキュラ伯爵のもつ闇のイメージそのままの恐怖がダンスで具現化され、そのイメージを物語としてつなぐセリフがまた、新たなイメージを紡ぐ。
舞台で犠牲になる少女たちは、自分をとりまくものの正体を知らず、闇に翻弄され夢を恐れ、そして首の後ろの傷の痛みを知る。なぜか訪れる悪夢。闇への恐怖。それは、風土が社会が少女たちを知らないうちにおいつめている様のようにも見える。
幕あき冒頭。無邪気な少女の声で子守歌が流れる。
ver-muten, ver-raten, ver-sehen, ver-shieden
少女は子守歌の歌詞の意味を知らない。歌詞も言葉遊びのようだ。無邪気に唄う。その唄はドイツ語としての意味をもっているが少女にとっては、そのやわらかな旋律を口ずさむ楽しさでしかない。
その「こもり唄」のなか、白いプリミティブなワンピースを着た少女たち。無邪気にけれどどこか空虚な想いをステップに託す。そこに訪れる闇。
闇は無邪気な少女を悪夢へとひきづりこむ。夢魔。首の後ろの傷。危険な匂いがする邸宅へ、いま一人の少女が入っていく。
そこは爵位を返上した土岐家の古い屋敷。現在の主は三田和代の演じる精神科医として少女たちの心の叫びをなだめる土岐貴子。少女たちの夢の告白を記述しながら、その闇の正体に自分の秘密の匂いを感じ、自分の秘密と向き合う時の近さを感じている。
新しい若い家政婦の少女。無邪気な彼女の前にあらわれる秘密の扉。
「けっして覗いてはいけませんよ」と注意をうながされながら、扉の前に食事を運ぶ少女。無邪気な好奇心。
部屋のなかには、自らの存在に苦悩する青年。舘形比呂一演じる青年は心を病んでいる。 チョコレートのみを食し、精神安定剤を飲み。闇におびえ、闇に捕らわれる青年――土岐貴之。
母だけみせる安堵の微笑み。甘えた姿。
言葉と記憶を失い、母の愛情にくるまれて彼を傷つけるものから守られるように部屋に閉ざされている。動物的な反応。不可解なほどアンバランスな精神。己の存在自体に苦悩し、母の愛情と愛情からあたえられる言葉に答えようとしながら、自分の内側の闇におびえる姿。
「おとうさま、そっくりの美しい顔」
でも、ぼくはそのおとうさまを知らない。
「なんて冷たい手足」
それは、ぼくが生きているのか、死んでいるのか――ぼく自身にもわからないから。
闇はいったいどこからやってくるのか。
三木雄馬、演じる闇はまさに突然あらわれ人々を翻弄する。
貴之は惑う。
最初は小さな闇が、部屋の隅をうかがっていただけだったはずなのに、闇の力は日増しに強くなり、もう、どこまでが自分でどこまでが闇だったのかわからなくなったしまうった。闇とともに落ちていく感覚…それは、自分という内側に落ちていく感覚。
闇を抱擁し、闇に抱擁され、貴之はやがて、闇そのものへと変貌してしまう。
血を求めて彷徨う、飢えの感覚。
体の内側から沸き上がる欲望…。
血が…血が欲しい。
家政婦の少女に襲いかかる闇…それは貴之が闇に飲み込まれた結果なのか。
三田和代
貴之への愛ゆえに、多くの記憶を封印した母。土岐家の血。跡継ぎが生まれずに消え去るはずの家が、その血への執着ゆえに犯した罪。それが母の秘密だった。
「あなたが子供のころ。このお屋敷にはたくさんの鳥がいたの。それをあなたは全部逃がしてしまった」
逃がした鳥は、実はすべて息子が殺したのではなかったか。愛ゆえに彼女の記憶は意図的にすりかえられ「思い出せない」記憶になる。
秘密を封印するためには、思い出してはいけない。けれど、母は息子に懇願する。
「思い出して」
矛盾に満ちた母の想いと行動。
しかし、そんな母を正気に戻したのは少女の子守歌ではなかったか。
闇に襲われ絹を裂く悲鳴に、現場にかけつけた母は少女のうなじにまだ傷がないことに安堵しながら一つの決意をする。
「もう、こんなことは終わりにしなければ」